ぷれす通信

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ぷれすスタッフによる不定期連載コラム

なんでも書いていいって言ったじゃないか! 第15回

ぷれすスタッフによる不定期連載コラム

戦争・平和教育を考える

 

三輪しののい

 

 サブスクで映画を見ることも多いこの頃だが、わりと戦争映画を選んで見ている。究極の状況で見せる人間本来の暴力性や、それを押しとどめる理性との相克など、考えさせられることも多い。

 ただし、外国のものばかりで日本のものはほとんど見ない。あまり見ていないのでなんだが、日本の戦争映画(とりわけ太平洋戦争もの)は、その悲劇的心象に寄りかかりすぎている感じがして、どこか学校の戦争・平和教育を受けているような気持ちになってしまう。

 

 僕は横浜で育ったので、子どもの頃から太平洋戦争の空襲について教えられた。

 ぼろぼろのモンペや、熱で曲がった瓶や、焼け焦げて何が何だかわからなくなった物体やらが体育館に並べられ、それを見て回ったりした。(怖くなって泣き出す子もいた)

 体験談として、兵器工場を狙った爆弾が逸れて駅を破壊してしまったことや、防空壕がわりに避難したトンネルの両端を爆撃されて、逃げ場を失ったほとんどの人が亡くなってしまったといった痛ましい出来事の数々を聞かされた。

 そして最後に先生がいつになく神妙な面持ちで締めくくる。

「二度と戦争をしてはいけません」

 

 戦禍について教わることに異論はないが、今にして思えばその中身よりも、戦争の話の前ではこういう表情をして耳を傾け、惨状をともに嘆き、最後に平和主義を確認しあうといった「態度」の学びのほうが大きかったような気がする。

「場」を重んじる日本の文化を、戦争を題材にして教えられたようなものだ。

 カリキュラムに組み込まれる以上、どうしても画一的な教育になってしまうのは致し方ないことではあるのだけれど。

 

 そんなわけで、「戦争はしないほうがいいんだな」と留保なしに納得できたのは17歳になってからだ。

 平成に入って家族でUターンを決め、長野の実家に住んでいたときのこと。

 ある日、学校から家に帰ると、居間に額装されたモールス信号表が掛けられていた。単語帳をばらした状態で、「・―」「・―・―」といった信号を記した一枚一枚が「いろはにほへと」順に並べられている。所属部隊が書かれ、真鍮でできた小さな楕円の認識票も添えられていた。

 通信兵だった祖父が飾ったらしい。

 

 数日して、テレビでナイターだかドラマだかを見終わったあとに、その額を何とはなしに眺めていたら祖父がひょっこり顔を出した。それで戦争の話になった。

「本当にこの信号でやりとりしていたの?」

 点と棒の組み合わせで、ちゃんと言語として理解できたのか半信半疑だったのだ。

 祖父はうなずいて、モールス信号表を指し、「トンツー、トンツートンツー」と口にしながらやって見せてくれた。

 僕が興味を示したのが嬉しかったようで、手旗信号についても教えてくれた。旗を持って左右の手を上げ下げするのだ。

「実際は遠くのほうでバタバタしてるのを見たところで、何を伝えたいのかよくわからないんだよ」

 懐かしそうに笑った。

 戦争にまつわる話をリラックスして聞くのは初めてのことだった。

 

 祖父はエピソードをいくつか披露してくれた。

 軍から支給された時計の他に、私物のいい時計を所有していたので常に正しい時刻を把握していたこと。そのために正確な時刻を知りたかったらあいつに聞け、と言われていたこと。

 戦友の肩や背中には各戦場で撃たれた数発の痕が残っていること。一度に何発も撃たれない限り、致命的な場所を除けば、案外と人は死なないものだということ。

 メディアの報道をよそに、敗戦が確実のものとなりつつあるのを上官の動揺で悟ったこと。

 祖父の弟(僕からすれば大叔父)は、南方戦線で部隊全滅と言われた作戦に参加しており、終戦後も安否がわからなかったこと。家族を集め、住職にお経をあげてもらってしばらくしたあと、前触れもなく帰ってきたこと。補給なき作戦で、カメレオンなんかを食べて飢えをしのいでいたらしいこと。そして体内には敵の銃弾が入ったままであること。

 そういった話を、時にユーモアを交えて語ってくれた。

 

 こんな風に2人で長くあれこれ話したのは子どもの時分以来ではないか。

 気づくと夜も更けて、祖父に少し疲れた様子が見えた。そろそろお開きにしなければと、腰を上げようと思ったそのときだ。

「まあ、でもな―――」

 これまでとはいくらか違った声のトーンだった。無念さをにじませた笑みとでもいう表情を浮かべ、息をひとつついた。

「戦争はやらないほうがいい」

 僕を真っ直ぐ見てもう一度口にした。

「戦争はな、あれはやらないほうがいい」

 その瞬間、「ああ、戦争というものは本当にしてはいけないものなんだな」と腹落ちした。

 

 体育館や教室の壇上から涙ながらに訴えられた平和教育は、いわば解答欄に「戦争反対」という答えを書くためであった気がする。確かにその答えは正しいのだけれど、教えられた「方式」(=「場」における態度)によって導き出される、重みのない解答だったのではなかろうか。換言すれば「空気」に心を動かされているだけで、深いところでの教育を受けていなかったのではないか。

 理解することと納得することは別なのだ。

 

 祖父が僕に伝えてくれた戦争は、そうした方式や空気を取り払った別のアプローチによるものだった。笑いや冗談を交えたリラックスしたものにもかかわらず、最後にぴしゃりと戦争の否定を口にした。だからこそ、これまでにない真実味がそこに生まれたのだ。

 平和に対する教育というものは、解答欄に答えを書いて終わるようなものではない。

 語られる惨劇に感情移入し涙を流し、その場のカタルシスで終わるものでもない。

 ましてや恐怖のトラウマを植え付けて、「考えたくもない」と問題意識そのものを潰してしまうなどもってのほかだ。

 そこにあるべき教育は、誰かに、もしくは次の世代に、その願いをつないでいくバトンのようなものでなくてはならないのではないか。抽象化されたスローガンに終始するのではなく、紡ぐ先を求めたくなるような平和希求の教育方針を生み出す時期に来ているのではないか。

 

 もうひとつエピソードを記しておこうと思う。

 祖父が亡くなる数か月前のこと。お世話になった方にお礼を伝えたいから車を出してほしいと頼まれ、何軒か回ったことがあった。

 訪問先の少し前で車を停め、エンジンを切って車内で待ち、玄関先で話をする祖父の声を窓を開けて聞いたりしていた。そこで戦争の話題が持ち上がった。

 徴兵され、異国の地から一度帰郷し、再び戦地に赴く際に「もうこの門をくぐることはないかもしれない」と覚悟して家を出たというのを耳にした。

 僕が小学生のときに祖父は家を建て替えたのだが、門の改装にもずいぶんとこだわっていた。そして新しい門を構えると、家族全員を集めてその前で記念撮影をした。

 そこまで門にこだわったのは、生々しい戦争体験の一部を何かに預ける(負担してもらう)必要があったのではないか。死と隣り合わせの戦場を切り抜け、再び我が家の門を前にしたときの様々な感情を生涯にわたって分かち合うものとして。

 きっと僕には語れないような、惨たらしい場面の数々といったものを目にしていたに違いない。

 

 昨年の正月からずっと帰省できずにいる。戦時下ではないが、僕が実家の門をくぐるのはもう少し先のようだ。

 17歳のあの日の夜を思いながら願いを託す。

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(セカイヨ へイワニ アレ)

 

 

〈出版の窓〉

 原稿整理や校正で悩むのが数字の表記です。漢数字と洋数字をどう使い分けるのか、縦組みと横組みで読みやすさも異なるので悩ましいところ。かといって「1石2鳥」「早起きは3文の徳」なんて表記は目にしませんよね。熟語や慣用句のように「ひとまとまり」のものは漢数字です。

 では、第〇次世界大戦の場合はどちらでしょうか?

 辞書や百科事典、用字用語集などいくつか調べてみたところ、統一性は見られませんでした。てっきり漢数字が多いものと思っていたので驚きです。洋数字を採用している『記者ハンドブック』では、その理由に「順序、回数を示す語」であるためとの説明がなされています。

 たしかに理解はできるのですが、数字の変換が可能であるように思え、どうも収まりの悪さを感じてしまうのは自分だけでしょうか?

 個人的には、第一次世界大戦、第二次世界大戦は「ひとまとまり」の語としてそれぞれ漢数字で表し、これに続く「大惨事」はなんとしても避けなくてはならないと思う次第です。

 

 

《著者プロフィール》

三輪しののい

1976年生まれ。神奈川県出身。